Strange Creators of Outer World/Introduction of Previous Works/Hopeless Masquerade/Fragment of Phantasy

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幻想のもと②
Fragment of Phantasy
東方Projectにちりばめられた、様々な幻想の欠片を覗き見るコラム。2本目は、何作かにわたって登場する複数のネタについて
その根本的な部分からたどっていきます。 文/塩田信之
あらゆるものに〝神性〟は宿る!?
八百万の神をいただく日本人にとっては特に不可思議なことではないのですが、長い年月を経たもんは生物無生物を問わず魂あるいは霊などの類を宿すようになるという考え方があります。例えば樹木や岩、そして山そのものを神あるいは紙を宿した「ご神体」と崇めることは日本に限らず人間が文明を獲得する前から行ってきたと思われます。暖かい光で世界を照らしてくれる太陽、移り変わる季節を運び時に吹きすさび荒れる風、雨を降らし洪水を引き起こすこともある雷などさまざまな自然現象を恐れ神として祀り上げることは世界中で往々にしてありました。
もっとも、自然物そのものを神と崇める習慣は文明が発達するに従って衰退していく傾向があります。それは信仰の根源に「畏れ」があったからで、衣服や家屋が発達していけば雨風はしのぎやすくなりますし、治水灌漑が進んでいけば、水害を減らし農作物の育成に利用できるようになります。もちろん人間の手ではコントロールできない自然現象もたくさんあり続けますが、常日ごろから畏れる必要は減っていきますから、神としての存在感も薄れていくわけです。また、かつては山だったり巨木だったりした神々が、人間のような名前を持ち、絵や像などが造られることで人間に似た姿を獲得していきます。さらには「神話」によって人間と同じように生活したり、喜怒哀楽の感情を持つことがわかってくると、それらの神々が元々自然現象由来であったとしても、感情移入ができたり親近感を感じる「神様」に変わっていったのではないかと思います。
日本の文明が形になり始めた時は、先進的な技術を持った恐らくは外来の人々が「倭」と呼ばれる国家を作って、「高天原からやってきた神々の子孫」として統治を始めました。最高神アマテラスは太陽を神格化した存在ですが、神話自体ずいぶん後にまとめれらたせいなのか、弟の乱暴狼藉に塞ぎ込んでしまったり、地上に降りて人間たちを支配する子孫を心配する母か祖母のようなイメージで描かれています。氾濫する河川のイメージが怪物のように描かれたとされるヤマタノオロチも、当初娘を生贄に差し出さねばならない恐ろしい存在だったのに、天下った神スサノオに退治されてしまいます。恐らくは自然現象を神格化した存在が多かった日本土着の神々(国津神)は、高天原からやってきた天津神に制圧されたり懐柔されていきます。軍門に下らなかった神々は「まつろわぬもの」として鬼や妖怪の類に貶められていったわけです。自然現象に対する畏敬の念はまったく失われてしまったわけではありませんし、神社には「ご神体」として変わらず大切にされてはいましたが、聖徳太子の時代から日本で流行していった仏教の勢いには勝てませんでした。
妖怪・付喪神としての復権
古い道具などに霊や命が宿る妖怪が「付喪神」として知られるようになるのは、室町時代に作られた『付喪神絵巻』と通称される絵巻物からと考えられています。その後『百鬼夜行絵巻』(室町末期以降)に妖怪たちの一団に含めて描かれ、妖怪の種類としてもバリエーションが増していったようです。かつての自然現象を神として崇めたものとは大きく異なり、人間に悪さをしても脅かしたりイタズラをする程度の、滑稽でどこかかわいらしいヨーロッパの妖精伝説に近い印象になりました。人間に飼われた猫が長い年月を生きると、猫又などの妖怪に変化するという考え方とも共通する部分があります。
ともあれ、『百鬼夜行絵巻』以降、付喪神は妖怪画のいちジャンルとして好んで描かれるようになりますが、現代に伝わる付喪神のイメージの多くは江戸中期の浮世絵師である鳥山石燕によるものです。『画図百鬼夜行』(1776年)や『今昔画図続百鬼』(1779年)、『今昔百鬼拾遺』(1784年)と妖怪画の版本を出して人気を博し、シリーズ的に最後の刊行となった『百鬼徒然袋』(1784年)がその名の通り器物などに関連した妖怪が多く含まれています。
多々良小傘や堀川雷鼓、九十九弁々・八橋と付喪神由来のキャラクターが多い東方シリーズですが、今回特に注目したい「秦こころ」は聖徳太子ともゆかりの深い付喪神です。そのルーツと考えられる妖怪画も、『百器徒然袋』に「面霊気」の名前で収録されています。そこには、聖徳太子のころに秦河勝がたくさん面を作り、それらがまるで生きているようだったのは河勝の巧みさのせいだろうといったことが書かれているのですが、最後に「夢に思った」と締めています。桟にかけられた神楽や能に使われる「翁面」と、床に並んだ鬼か達磨風の面が描かれた絵も、特に妖怪としての性が描かれているわけではありません。鳥山石燕にしてみれば、「秦河勝の作った面は霊性を感じるほど素晴らしい」と言いたかっただけかもしれません。なお「面霊気」図には太鼓も描かれていますから、堀川雷鼓に繋がるかもしれませんし、『百器徒然袋』には他にも九十九弁々に繋がる「琵琶牧々」と八橋に繋がる「琴古主」、多々羅小傘とはちょっとイメージが遠いけれど、「骨傘」という妖怪も登場します。
謎多き秦河勝
秦河勝の面については河勝の子孫とされる、南北朝から室町時代に活躍した猿楽師・世阿弥の『風姿花伝』に記されています。そこでは、聖徳太子が秦河勝に「神楽の真似をせよ」と言って自ら作った「六十六番の面」を与えたとあって、面を作ったのは聖徳太子だとされています。どちらが正しいのか気になるところですが、『日本書紀』には少年時代の聖徳太子が霊木から四天王像を作って髪飾りにしたとか、絵や造形の才能があったことが記されていますから、『風姿花伝』の方が正しいように思えます。また『日本書紀』には聖徳太子と秦河勝のやり取りが記されていますが、そこには聖徳太子のありがたい仏像をいただいて広隆寺を建てたとだけ書かれています。河勝は聖徳太子の右腕ともされた人物で、日本古代ミステリー好きなら耳にしたことがある「秦氏」の一員です。秦氏といえば、秦の始皇帝の子孫ともいわれる渡来氏族で、養蚕と機織を司っていたことでも知られており、『日本書紀』にも蚕との繋がりを示唆する記述があります。
聖徳太子の死後は太子の息子「山背皇子」を支持し続けましたが、蘇我入鹿によって皇子が自殺に追い込まれてしまい、河勝は播磨の地に逃げたとされています。この辺りは『日本書紀』に記録はないので『風姿花伝』が伝える内容となりますが、河勝は「うつほ舟」に乗って辿り着いたことになっていて、祟りをもたらしたため死後「大荒大明神」と呼んで祀られたといいます。「うつほ舟」といえば、「うつろ舟」とも呼ばれる赤子や女性、あるいは神が乗って流れ着いたという伝承が日本各地に残っていて、「実はUFOだったのではないか」などといわれたりもする謎の物体です。日本神話で出雲の地に流れ着いたスクナヒコナや、『旧約聖書』で産まれたばかりのモーセがパピルスのカゴに乗せて流されたことなど、神話・伝説のモチーフと共通したものとも言われています。実は河勝にも、氾濫した川の上流から流れてきた壺を割って出てきた赤子だったという伝説があります。
『風姿花伝』が伝える「能」の歴史
秦河勝の伝説については、現在よくいわれるようになった「聖徳太子は実はいなかった」が本当だった場合どうなるのかと心配になってしまいますが、『風姿花伝』には「能」がどのように始まったのかについても驚くべき歴史を伝えています。
その始まりは、アマテラスが「岩戸隠れ」をして世界が闇に包まれた時に、芸能の女神アメノウズメが踊って外に導き出したことにより世界に光が戻った神話だといいます。『古事記』や『日本書紀』の記述によれば、乳房や下腹部を露わにしたエロティックな踊りを想像してしまうところですが、それを見た神々が大笑いをしたためにアマテラスも気になって外に出てきたわけですから、ユーモラスな踊りだったと考えられます。アメノウズメは「おたふく」や「おかめ」の面のルーツともされますし、当時の基準で「美女」であると同時にコメディエンヌでもあったと考えられます。アメノウズメはその後天孫降臨に同行し、現地の案内役となったサルタヒコと結婚します。子孫が巫女として祭祀を執り行う氏族「猿女君」の祖神となり、巫女舞を含む神楽を聖徳太子の命で行うことになった河勝が始めたのが、後に猿楽、そして「能」と呼ばれるようになる芸能だった、というわけです。
実際のところ「能」がいかに誕生したのかはまだ解明されていないのですが、『風姿花伝』の主張は意外と的を射ているという見方もあります。
ルーツを辿っていけば、神楽以前にも中国や韓国で古くから行われていた仮面芸能があって、その影響から始まり独自の発展を遂げたものと考えられます。その「独自の発展」が、神話を伝える神楽にあったという考え方です。神楽といえば厳かな雰囲気を想起しやすいものですが、民間に伝わり現代でも楽しむことのできる神楽には即興要素や観覧者との掛け合いなども含めてコミカルな部分が数多く見られます。一般大衆に親しまれていく上で重要な要素であることは間違いありませんし、農作業とともに行われた「田楽」とも影響しあう形で「猿楽」へと発展していった歴史も想像しやすいものです。
神楽にもさまざまなスタイルがあって、特に明治期に国家神道が推し進められた時期に改変されたり、戦時中に途絶えた後に復活したものなど、聖徳太子が秦河勝に真似をしろと指示した「神楽」がどういったものか確実にはわかりませんが、本来何日もかけて奉納される「六十六番」構成の神楽が長すぎることから再編されていき、シリアスな「能」と滑稽な「狂言」を交互に演じる「能楽」のスタイルが確立されていったものと思われます。聖徳太子が作ったとされる「六十六番の面」が、フルサイズの神楽で使われていた面であり、それを受け取った河勝もしくはその子孫たちが「猿楽」としてまとめ上げていった歴史は、本当にあってもおかしくありません。猿楽から能楽への発展が、秦氏の子孫である観阿弥・世阿弥の功績であることは間違いないところなのですから。
塩田信之
主にゲームやアニメ関係の文章を執筆しているフリーライター。最近の仕事では『真・女神転生DEEP STRANGE JOURNEY』限定版付属の25周年記念教典『メガテンマニアクス』の編集執筆、公式サイトの神話コラム「神話世界への旅」など。