Strange Creators of Outer World/Introduction of Previous Works/Impossible Spell Card/Fragment of Phantasy

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幻想のもと② Fragment of Phantasy
塩田氏によるコラム2本目は、改めて付喪神について。
妖怪の発生や伝播を鮮やかに俯瞰する内容に注目だ。 文/塩田信之
塩田信之
神話・伝説好きなゲーム・アニメ中心のフリーライター。現在はスマホゲームのシナリオ等を手掛けることも多い。2019年『いかにしてアーサー王は日本で受容されサブカルチャー界に君臨したか』(みずき書林)にも寄稿している。
付喪神について その2
前回は途中から秦河勝の話になってしまったので、今回は改めて付喪神について違った角度から掘り下げてみることにしましょう。
付喪神は同じ読み方で「九十九神」と書かれることも多いように、作られて百年も経つような古い器物になにか霊的な存在が宿った状態を指します。付喪神となった器物は目鼻や手足が生えたり、ことによっては鬼にも似た肉体を獲得し、同じような付喪神やさまざまな妖怪と集って街中を練り歩いたりします。それが、いわゆる『百鬼夜行』として主に江戸期に描かれた妖怪画として残っているものです。
そう思って世に残る『百鬼夜行』図の類を見てみると、そこに描かれている妖怪の半数以上が人々の生活に身近な食器や仕事に関係した道具類、あるいはお坊さんが法事の際に用いるような仏具などが妖怪に変じた姿であることに気づきます。妖怪たちが集って練り歩く『百鬼夜行』は平安時代の頃からさまざまな書物に記録されてきましたが、少なくとも図画に描かれた江戸の頃は集った妖怪の多くが付喪神あるいはそれに類する存在だと考えられていたということになります。特に、都市部ではそうした傾向が強かったのでしょう。
各地にさまざまな妖怪が民話として伝えられている日本で、それほど付喪神の存在感が強かったというのも少し意外と感じられるのですが、そこは地方と都市部にあった意識の差が出ているようにも思えます。逆に、地方の民話にある妖怪たちがどんな存在だったかを考えてみると、自然現象や動物などを怪物的に捉えたものだったり、元は人だったけど執着や恨みの念から鬼などに変じたというパターンは少なくありません。自然現象は人間の歴史など比較にならないほど古い存在ですが、動物は「猫又」の伝承にも見られるように、長い年月を生き続けることで妖怪化することがあると考えられていたようです。人間の場合は寿命というよりも「思いの強さ」みたいなものが妖怪化に関係しているようですが、動物の場合も年月についてはまちまちだし、人間との関係性によっても妖怪化する時期は変わってくるようです。この辺り、器物が付喪神化するのと本質的には変わらないのではないでしょうか。そもそも人間が関わっていなければ昔話として語られることがないとは思いますが、動物も器物も人間の影響を受けてモノノケ化したか、それが早められたように思えます。
物に宿る神
日本人はありとあらゆるものに神性を見出し、神として崇めてきました。山そのものや、巨大な岩、樹木、川や滝など、古くからあるものや美しいもの、人間の力では動かしたりできないもの、時折人間も巻き込む災厄を引き起こす存在を神と呼んでいます。祭祀を行い崇めたのは、特に機嫌を損なうと怖い神を鎮め、できるだけ災厄から逃れたいという思いからでしょう。山も川もそれそのものが神であり、そこに人間に似た「神様」がいるという想像まではしていなかったのではないかと思います。人間に似た姿の神様が創られていったのは、人間が強くなり治水や灌漑である程度災厄の統御が可能となってからでしょう。それと同時に、付喪神のベースとなる「宿る神」の概念も誕生します。それまで神そのものだった山や岩は神の宿った「御神体」と捉え直され、やがて人工的に作られた「物」へと置き換えられ「神社」というこれまた人工の建造物に祀られます。神話にも、天上の世界に住む(まだ人間にはまったくコントロールできない)太陽でもある最高神アマテラスが、地に降りる孫ニニギに「自身そのもの」として「八咫鏡」を勾玉や剣とともに授けています。いわゆる「三種の神器」それぞれが「神の宿った人工物」だったというわけです。
神話のたぐいは後代の創作で、往々にしてその次代に生きた人々が実際に信仰していたわけではないことが多いのですが、人々の生活に密着したところにも人工物に宿った神はいました。その代表的なものとしてまず挙げられるのは、「かまどの神」でしょう。日本では『古事記』の大国主の段に奥津日子(オキツヒコ)と奥津比売(オキツヒメ)の兄妹神として記されていますが、実際にそう呼ばれていたかどうかはともかく、天孫が降臨したとされる時期や日本にその神話をもたらした人々が到来する遥か以前から広く信仰されていたようです。かまどの神としてはギリシア神話の女神ヘスティアなどが有名で、人間が火を使い始めた頃から「時に火事にも繋がる」かまどそのものを神として怖れ崇めたと考えられます。「火の神」として自然現象に近い存在ではありましたが、かまどは人工物であり、火も人間が意図的に起こしていたわけですから、「物に宿る神」だったと言えます。古事記の少し前の箇所には、ガガイモの舟に乗って現れた少彦名(スクナヒコナ)の正体を知る「かかし(案山子)の神」として「クエビコ(崩彦)」も登場しています。それもまた、収穫を守る「物に宿る神」でしょう。
付喪神としての発展
そんな『古事記』や日本の正史とされる『日本書紀』がまとめられたのは八世紀と言われていますが、その内容はいくつかの土地に古くから口述で伝えられてきた神話的な部分を含んだ歴史を、大和朝廷に都合のいい形に改変しまとめたものです。八世紀といえば、奈良から平安時代へと移り変わっていく時期で、いわゆる「仏教公伝」以降、中国や韓国からさまざまな知識や思想が入ってきた時期でもあります。鬼や怨霊が人々や都に脅威をもたらしていると信じられ、妖怪たちが通りを練り歩く『百鬼夜行』という現象もこの時代から『今昔物語集』などを通じて伝わってきたものです。
『付喪神』は室町時代(十四〜十六世紀)から使われるようになった新しい言葉で、よく引用される「陰陽雑記伝云、器物百年を経て、化して精霊を得てより、人の心を誑かす、これを付喪神と号すといえり」の一文は室町後期作とされる通称『付喪神記』と呼ばれる絵巻物に記されています。そこに、さまざまな器物に手足が生えたような妖怪が描かれ、以降江戸期を通じて描かれる妖怪絵の中心的モチーフとなる「百鬼夜行」へと繋がっていったと考えられます。『付喪神記』の物語は、年の暮れの煤払いで打ち捨てられた器物たちが、「古文先生」と呼ばれる書見台に顔がついたような妖怪を中心に人間に対するクーデターを企てたものの、尊勝陀羅尼の呪文で調伏された護法童子(『信貴山縁起』にも出てきましたね)にも追い立てられて敗北、その後「一蓮上人」という数珠の付喪神の元で出家し、仏教の修行に励んで成仏するというものです。どことなくユーモラスで、仏教説話集として教訓的な物語としてまとめられています。
話は変わって『百鬼夜行絵巻』はといえば、現在残っている最古の作品は、京都のお寺でかの『一休さん』のモデルとされる一休宗純が青年期を過ごしたという大徳寺の真珠庵に収蔵された室町時代・土佐光信作とされる重要文化財で、「真珠庵本」とも呼ばれています。そこには複数の鬼に追い立てられているような器物に手足の生えた妖怪たちが描かれているものの、物語的な因果はさして書かれておらず、妖怪たちの進む先に巨大な炎の円盤が現れ引き返す妖怪の姿で終わっています。「真珠庵本」には内容を示す「詞書(ことばがき)」もないため筋立てもはっきりとはわからないのですが、『今昔物語集』以来、付喪神に関する物語の多くに対抗手段として尊勝陀羅尼もまた取り上げられているため、この絵巻の最後に出てくる炎の円盤も尊勝陀羅尼によって生じたものと考えられています。陀羅尼とは、密教に用いられる一種の呪文で、短いものを「真言(マントラ)」、長いものは「陀羅尼(ダラーニー)」と呼ばれ、サンスクリット語によって宇宙の真理(の一部)が説かれたものを音写した語句とされます。「尊勝陀羅尼」はその内のひとつで真言宗や天台宗でも重用される、死の危険を回避し寿命を延ばすとされるものです。日本では宗派を問わず広く浸透していたようで、特に百鬼夜行に遭遇した時に唱えたり、陀羅尼の語句が記された護符などを持っていると助かると考えられていました。 Sonshou Darani / Vikiranosnisa
時代が移り変わり、道具類が豊かになっていくことで付喪神の概念が生まれ、それを妖怪として畏怖の対象とすることで初期の『付喪神記』や『百鬼夜行絵巻』は仏の功徳をわかりやすく伝える仏画として作られたのではないかと考えられます。多くの写しやバージョン違いがあるのも、各地の寺で説話を絵解きするために用いたのでしょう。『百鬼夜行絵巻』はその後江戸期に数多くのバリエーションが作られていきましたが、これは奇想天外な妖怪を数多く描く手法として純粋に楽しまれたエンターテイメント作品として発展していったものです。
付喪神は日本独自の妖怪?
鬼や怨霊などが中国、引いてはインドにルーツを持った妖怪とされるのに対して、付喪神は日本独自に発展した妖怪とされることも多いのですが、中国に器物に霊が宿る古い物語があまり残っていないだけで、確証が得られた言説ではありません。八世紀といえば、中国は唐の時代で、日本は遣唐使などを通じてさまざまな中国文化を取り入れていました。唐代の中国は、魯迅が『唐宋伝奇集』をまとめていますが、創作された物語を楽しむ文化が広がり発展していた時期で、神仙や天女、妖怪の類が登場する物語も好まれていました。『唐宋伝奇集』には「古鏡記」という物語も収録されているのですが、これは人間の嘘や隠し事を見抜く力がある「鏡」自体を主人公とし、古代中国の伝説にある「黄帝」が作った十五の鏡のひとつとしています。閻魔大王が死者を裁く際に使う浄玻璃鏡や、『西遊記』などに登場する照魔鏡を連想させる魔法的なアイテムですが、同時にアマテラスの宿る八咫鏡をも思い起こさせます。九十九弁々や八橋の元になった。琵琶牧々や琴古主といった付喪神を数多く描いている鳥山石燕は、照魔鏡を付喪神「雲外鏡」として『百器徒然袋』に収録しています。これは一例に過ぎませんが、中国や韓国にルーツのある付喪神は、意外とたくさんあったりするのかもしれません。